生きづらさを抱える少数派の種族たち「ケーキの切れない非行少年たち」を読んで
「ケーキの切れない非行少年たち」(宮口幸治著 新潮新書)という本を読みました
表紙とタイトルを見たときに気持ちがざわざわしたからです
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ざわざわの正体は、非行少年たちの多くは発達障害や知的障害があって、それに気づかれずに成長し、家庭にも学校にも受け入れられずに非行に走ってしまった 又は 悪いことをしたとは気がついていない場合も多く見過ごされて成長していたことが書かれてありました
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この手の内容に私が反応してしまうのは、自閉症の子供を育てる中で、学校に通う子供たちの中に、グレーゾーンといわれる発達境界域の子供が多くいることを見たり聞いたり知っていて、その子供たちや親は普通学級の中で毎日過ごすことに苦労していることを知っているからです
この本には、医療少年院に収容されている未成年者が、なぜ少年院に入るような人格になってしまったのか…
ということが書かれてあります
医療少年院に10年以上関わっている臨床心理士の筆者は、医療少年院にはさぞ凶暴な少年たちがいるのではないかとびくびくしながら行ったそうです
ところが、そこにいる少年たちの表情はそこまで暗くはなく、挨拶をしてくれる子供もいたといいます
医療少年院に勤めて筆者が一番驚いたことは、そこにいる少年たちの多くに共通することが
・簡単な足し算や引き算ができない
・漢字が読めない
・簡単な図形を写せない
・短い文章すら復唱できない
のように、見る力・聞く力・見えないものを想像する力がとても弱く、そのせいで勉強が苦手だったり、話を訊き間違えたり、対人関係で失敗してイジメにあっていたという現実だというのです
学校教育の中で見過ごされる子供たち
- 学校で子供の問題に気づかれずに過ぎてしまった
- 学校で子供の問題に気づき、対応してくれた先生がいたとしても、学年が変われば担任も変わってしまう
- 小学校の間は何とかなっても、中学からは全く勉強に手が付けられなくなった
- 学生の間は学校でフォローしてもらえていたが、社会に出るとそうもいかなくなった
このように、子供の困り感・サインは必ずあったはずなのに見過ごされてきたこどもたちや、学校にいる間はまだ学校内で守られた存在であるけれど社会に出たときには自己責任で働かなければならない環境になった子供たちが、目に見えない知的障害を持っていると、社会に適応しづらいということは、療育子育てをしている親なら容易に想像できます
例えば私の息子は、一つ一つの指示出しでないと必ず忘れます
日々の習慣が身につくまでには時間がかかるので、毎日違った内容をしないといけない仕事や、家訓作業をサポートしてくれる人が居なかったら失敗ばかりで続けられないだろうなぁと、今から予測しています
それに息子は人と親しくなるまでにも時間がかかるので、職場の人が入れ替わりの激しい部署だったら困ったときにSOSをだせないだろうなぁ
といった、社会に出たときに困り感への課題をわざわざ練習する必要があります
そして、息子は筆者が上げていた 聞く力・見えないものを想像する力 は圧倒的に弱いです
だから、日々家庭でも学校でも療育でも丁寧に一つ一つ話を伝えたり、「どう思う、これはどうなっていると思う?この前こういう体験があったよね」のように問いかけをして考えたり想像する癖をつけるようにしています
通常学級でこのようなやり取りを担任にお願いすることは不可能ですね
こんな風に、私や私の周りの療育ママ友達たちは子供の困り感に気が付いたから、親も理解しようと勉強したり、学校や療育へサポートしていただけるようお願いをしています
でも、医療少年院に入ってくる子供たちは親にさえ気が付いてもらえなかったからそうなってしまった・・・と書いています
筆者は、
「親に言われたから精神科・児童精神科へ発達相談に来る親子は恵まれている。」といいます
相談に来るということは親や支援者が子供の困り感に気が付き、連れてきてくれる環境にあったからです
少年院に入ってしまうような子供は、問題があっても病院には連れてこられず、障害に気づかれず、学校でイジメにあい非行に走って加害者になり逮捕され、少年鑑別所に回されて初めて“障害があった”と気づかれるという状態があるのだと
この一文を読んで親としてショックだな~…という想いと、確かに学校内でそういう子供は沢山いることも知っています
支援学級に行った方がいいレベルの子供もいるけれど、親がそれを認めない
知的に劣っているわけではないけれど対人関係に問題があるのに親がそれを認めない
親側の「学校に通ってほしい」「勉強についていってほしい」「スポーツもできると嬉しい」「人気者だと嬉しい」「親のいうことを聴くいい子になってほしい」「高校に行ってほしい」「就職してほしい」親が持つ当たり前の感情かもしれないけれど、困り感を持つ子供たちにその親の期待はどれほど重圧なことでしょう
また、反対に親は子供の特性を認めているけれど、支援学級で支援を受けないといけないほどのレベルでもない。とはいえ、通常学級で自分の子供だけを担任に手厚く見ていただけるわけではないもどかしさを抱える場合もあります
クラスの下から5人の子供たち
特別な支援が必要ながら、気づかれない子供たちがどのくらいいるのか?ということが書かれていて、これも私は衝撃を受けました
現在知的障害は一般的にIQ70未満で、社会的にも障害があれば診断がつきます
息子はこれに該当するので軽度の療育手帳を持っています
この「知的障害はIQ70未満」という定義は実は1970年代以降のもので、1950年代の一時期は「IQ85未満とする」とされたことがありました
そうすると、知的障害と判定される人が全体の16%くらいになり、あまりに人数が多すぎる、支援現場の実態に合わない、など様々な理由から「IQ85未満」から「IQ70未満」に下げられた経緯があります
時代によって知的障害の定義が変わったとしても実態が変わるわけではないことを。
IQ70~84の子供たち、つまり現在でいう境界知能の子供たちは依然として存在しているのです
では、境界域に該当する子供たちがどのくらいいるのかというとおよそ14%。標準的な1クラス35人のうち約5人いることになります
・・・
この世の中で普通に生活をしていく中でIQ100ないとなかなかしんどいといわれています
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これ、支援の必要な子ってめちゃくちゃたくさんいると思いませんか?
そして、私も息子を育てる中でグレーゾーンといわれる子供たちやその親が苦労して学校生活を送っていることを知っています
過去に読んだ発達障害の本にも
「平均100」平均的な人が圧倒的に多い社会の中で「IQ84以下」は、確かに社会生活を送る中で不自由がある
と、同じことが書かれてありました
例えば発達グレーゾーンの人は「あの人物覚え悪いよね」「あの人忘れ物ばかりしてるよね」「あの人会話がたどたどしいよね」「とにかく、容量が悪すぎるよね」のような扱いをされているんじゃないかと想像できます
《NPO法人 ほうぼく》という。ホームレスの支援団体があります
ほうぼくの代表者が発信するYouTubeを見ていると、「ホームレスの中には知的障害のある人も少なくない」という言葉がありました
その映像には寒空の中段ボールに寝ころんでいる年老いた男性が映っていたそれを見て私は
「この人も知的障害に気づかれずに大人になってしまった一人なんだわ…」と悲しい気持ちになったことがあります
私が子供の頃から(それ以前から)変わっていない今の教育システム
発達障害という言葉が広く知られるようになり、学校の中で困り感を持つ子供が増え、支援学級に入学したいという希望も増え、就学相談を受けたいという親も増え、通級学級を希望する子供も増えている現状があるのに、今の画一的な学校教育のスタイル事態を変えていかないと、もう無理なんじゃないの?と常々思っているんです
30年も前から、「この国は子供を働ける大人を育てられていない」
といわれていて、問題や課題が浮き彫りになっているのに何にも変わらない教育システムの中で継続して働けない大人を量産し続けている現状…
今の学級は、地域の子供たちが集まり、学年ごとに区切られ、ランダムにクラス配分された学級で1年間×9年間義務教育を受けますよね
でも、クラスの中には ものすごく勉強が得意な子・少し得意な子・普通の子・少し苦手な子・めちゃくちゃ苦手な子・教科により凸凹がある子
…のように、子供一人一人の能力は違うのに、全員に対して同じ速度で同じ教え方で学ぶ環境ですよね
道徳で「困っている人を助けましょう、手伝いましょう」と教えるように、
「勉強が得意な人は不得意な人に教えましょう」
「スポーツが得意な人は苦手な人に教えましょう」
「絵が得意な人は絵が苦手な人に教えましょう」
「体が健康な人は体が不自由な人をサポートしましょう」
みんなそれぞれ得意なこと不得意なことがあるのだから、得意なことを不得意な人へサポートできる人になりましょう
という世界のほうが優しいと思いませんか?
「○○できる人は偉い。できない人はダメだ」という価値観なんて捨ててしまえばいい
とはいえどんな人も好きになりなさいってことを言われたって、気の合う人も合わない人もいるので、そんな善人にはなれるわけでもないですよね
私だって無理です
ただ、ほんのちょっと、ほんの1グラムだけでもいいから自分の身の周りにいる人に優しい気持ちを持てる自分になりたいと考えるようにしていて、そういう人が増えるほうが住みよい社会になるのにな…と、願っています